東 裕二 展
HIGASHI YUJI
2006年11月27日(月)~12月9日(土)
日曜休廊 12:00-7:00pm 最終日:5:00pm
Vernissage: 11/27 5:00-7:00pm
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秋山画廊 - アクセスマップ
「作ること」について -『美の呪力』(岡本太郎著)をテキストに、私の表現方法を考える-
(1)人間が自分の手で取り上げ積む行為によって冷たい石塊を自分のうちに入れてしまう。合体するのだ。石はそのとき『人間』になるのだ。
(2)積み上げ終り、手を放し、ふと身を引いた瞬間に、それは、まったく新しい存在(他者)として自分の前にたちあらわれる。
(1)(2)は岡本太郎著『美の呪力』の中からエスキモーの作るイヌクシュク(自然石を積み上げたひとがたの像)や、恐山の石積みに関して、石を積む行為そのものの分析である。引き続き、芸術一般のことがらへ広げられる。
(3)芸術創作において素材は他者である、それに精神を凝縮する、作者が働きかけ行動する。作者が働きかけ行動するとそれは素材ではなくなり作る者のうちに入り作者自身になってしまう。さらに完了してイメージが定着されると、それは人間を離れる。作られたものとして自立するのだ。作者にとっても他者であるこの自他のからみあいは、創作者の上にいわば危機的に実現している。人間存在がそのようなプロセスを内包しているのである。人がただあるということから、強烈な意識をもって行為する段階、結果、社会内人格のイメージとして、己れにとってさえも対するものとして出現する。
これらの文章は、私のものを作る原点として教科書的規範にしてきたことである。さらに(1)(2)の自然の石塊をそのまま積み上げるという原初的な行為から、彫られる(加工する)段階についても述べられている。
(4)さて石を刻んだ石彫はまた別の意味をもっている。今まで見てきたような「石そのもの」その神秘と人間の対決ではなくこの場合は作り出されたイメージが問題なのである。石は、そのとき手段であるにすぎない。たとえば、神を彫りあげようとすると、その形・姿に精神が凝縮するのだ。石は固さ・重みとしての抵抗だけである。それは技法・手さばきの上のことだ。だからもしも石より具合のよい材料があれば、それを使っても構わない金属・窯(や)きもの・乾漆・木彫など、作品の価値が素材で左右されることはないのである。もちろん素材に直面し、刻み、彫ろうとするとき、強烈なファイトがおこる。抵抗の強い材料であればあるほど、作る者の心はふるいたつ。だが最初の瞬間だけ。思うイメージが現れはじめると消え失せてしまうのだ。
(4)では、(1)(2)において石を積むという原初的行為に対するときはあれほど歯切れのよかった太郎の言葉が、ここへきて急激にトーンダウンするように見えるのだが。理論的には自然物に手を加え、イメージ化しきることによって一つの独立した世界を形作るということがいえても、実作者としての太郎自身の体験をイメージ化することによって失われる素材の神秘性・他者性に対する喪失感が、全面的にイメージ化された世界の肯定にためらいを生じさせているのではないか。すぐあとに、メキシコのオルメカ時代の巨石の顔に触れている。
(5)あれは人頭であるより「石」だ「石」が顔になっている。この場合、材料というより石そのものである。だからこそ異様な神聖感をおびている、そう感じた。
という文章につながり、まぎれもなく人間が手を加え像としてイメージ化した様に見えるものが、依然素材としての神秘をそなえたものとして存在し得る可能性について言及している。又(4)においてイメージの強力な力の前では、素材の抵抗感はただ技術的な問題として無視できるというような発言であるが、私はその素材の抵抗感こそイメージ化の拘束力を打ち破る重要な要素と考える。ブランクーシにおいては物質のじか彫りという方法で、形態に拮抗する素材感を生み出したように。又シュールレアリスムを通過したジャコメッティにおいてモデルと作者の間を仲介する、制作における石膏の抵抗感が、モデルと作者の無意識的対話を可能にしているように。
(3)(4)を参考にして私の制作方法を分析してみる。石は他者である、人間が少しばかり行為しても物質表面の引っ掻き傷や打撃痕としてかつての人間の活動のなごりを表面にとどめるのみである。石はいぜん石(他者)として存在している。さらに行為し続けると、石の表面は何層もの打撃痕に覆われ、自他の混合物になる。しかし行為し続けることによって得られる物質の抵抗感は、他者性を維持する。打撃痕は意識の方向性を指し示すが、それが具体的な何への意識なのか特定できない。その無意識に属しているであろう力が、表面にコンデンス(蓄積)される。あたかも檻にいれられた動物が己のにおいを檻のあちこちにこすりつける(マーキング)ことによって環境(世界)との絆を取り戻す(世界認識のための地図を作る)ように、原初的な人と世界の関係が石(他者性)との徹底的な対話を通じて、認識の網のようなものとして、織物を織るようにして紡ぎ出されていく。それらはイメージ化されたもののように他者として新たな世界をかたち作るものではないかもしれない。しかしその状況は、再度鑑賞者の視線によって、まなざされるとき、鑑賞者の体験として想起されるもの・無意識的多様性に開かれた世界へ変化するのではないか。太郎の語るユーラシア大陸いったいに広がるケルト文化やエスキモー文化・縄文土器・アイヌ文様への言説は魅力的である。しかしそれをおのれの表現に活かそうとするとき、現在の立ち位置からのイメージ化というアプローチの方法には、おのずと限界があるのではないか。そのことは、原初の状況に帰って世界を再構築するような経験によるしか取り戻せない世界なのかもしれない。