遠藤 利克 Trieb-神殿Ⅱ
ENDO Toshikatsu
2007年3月5日(月)~4月12日(木)
日曜休廊(3/21 祝は開廊) 12:00-6:00pm
Vernissage: 3/5(月) 5:00-7:00pm
秋山画廊 - アクセスマップ
毎日新聞(夕刊)2007年3月27日(火) 美術 三田晴夫記者
異次元の場をえぐり出す点で、遠藤利克(50年生まれ)ほど、それを突き詰めた作家もいないだろう。ただし彼の場合、感覚レベルの快感にとどまらず、つねに人間や世界や文明のありようを、根底から覆してしまうような衝動を伴っているのが最大の特質である。とりわけ「欲動」をモチーフとするこのところの連作が、様式論に足をすくわれがちな美術の時流とは程遠い位置に立っているのも不思議ではない。
その「欲動」を担ってきた物質が、美術ではめったに使われない水だった。遠藤は、地下に掘り下げた水槽や巨大な鉄のタンクにそれを密封したり、水力発電所 跡の空間にしつらえた無数のバルブから雨のように降らせたりした。目に見えない水、目に見える水を介して、じわじわと見る者の心理に染み込んできたのは、まさに人間や世界や文明への違和に満ちた気配ではなかったか。
今回の新作では、また水は姿を消した。奥の部屋から突き出て壁を巡っていく銅の配水管と、床に置いた同じ銅の貯水槽の中に。反復するポンプのモーター音が、壁を駆け巡る水を想起させるだけだ。発電所跡に激発した欲動が、鎮魂の儀よろしく再び静まり返ったような場。よみがえった人類史の古層に触れるかのような荘厳さと畏怖の念を募らせてやまない光景である。
読売新聞(朝刊)2007年4月12日(木) 編集委員 菅原教夫
「創造 神話」 彫刻家・遠藤利克の受賞
とうとう賞を貰ったな、との感慨がある。「美術家に賞はいらない」と公言してきた彫刻家・遠藤利克(56)が昨年発表した「Triebー振動」により、このたび平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞を美術部門で受賞した。
遠藤の受賞拒否は第44回ベネチア・ビエンナーレ(1990年)での体験に端を発する。この年、日本代表として伝統ある大型国際展に出品した遠藤は、授賞の下馬評にありながら結局取り損なうのだが、賞発表までの間、イライラする自分に嫌気がさしたこともあって、授賞に対する次のような認識に達する。
〈私にとってアートとは外部への逸脱であり、その欲望は既成の制度から排除された情動、あるいはイメージ、あるいはコトバにかかわっている〉。にもかかわらず〈自らの為した既存の制度への侵犯的介入が、その当の制度の側から評価されるというナンセンスを、どう解釈したらよいのだろうか〉(「アートにおける賞の構造的意味」=1990年8月31日、読売新聞中部版掲載)。この矛盾に当面し、彼は賞よりも自分の作品をとるという二者択一の道を選び、以後は朝倉文夫賞、平櫛田中賞などの受賞をことごとく辞退してきた。
この決意に何らかの変化がおきたのだろうか。制度侵犯の制作は変わっていない。たとえば昨年、山梨・白州で開かれた企画「ダンス白州2006」では自然木を焼く制作を試み、環境保護を訴える若者らと対立した。環境保護は誰もが反対しない現代の錦の御旗であり、木を焼く行為はこれにタオする侵犯を意味する。 が、遠藤のこのときの作品の狙いは、最も大切なものを生け贄として捧げなければ生に光は見えてこないという原始宗教社会的な世界を探ることにあった。
また、今日まで秋山画廊(東京・渋谷区千駄ヶ谷3-7-6)で展示されている「Triebー神殿Ⅱ」では、水を満たした銅の貯水槽を中央に据え、壁ぐるりを銅のパイプが走る会場に、モーター音だけが響くという設え。パイプの中を循環する水の動きが想像され、人間の奥深い所に潜む衝動が刺激される感じがする。この作品もまた言語以前の世界を照らそうという一貫したテーマを示している。
「受賞によって自分がスポイルされる感じが嫌だった。それだけピュアだったとも言える。でも、もう断る方が大変になってしまった」。選奨を受けた理由を遠藤はそう語った。こだわりがなくなったというか、受賞によって自分は左右されないとの自信がうかがえた。純粋であることが自然態を得たようだった。