ひとつの記憶 伊東孝志
12,3歳の少女がいた。 重い障害を持つ彼女は言葉を知らず、目線はいつも中空を彷徨っていた。 おそらく人とのコミュニケーションはとれなかっただろう。日常の中で、自身の存在を感じることもなかったかもしれない。
彼女の家の近くに、湧き出した清水が小さな流れを作っている場所があった。私は彼女が時々、その水辺にしゃがみ込み、流れる水を右手で何時間も触り続けていた姿を鮮明に覚えている。夕方になり、辺りが暗くなり始めても、飽くことなく彼女は流れる水を触り続けた。その様子は子供だった私の目にとても不思議な光景に映った。
あの頃から40年近く経って考える。指の間を流れ去る透明なもの、手のひらに伝わる冷たい感触、時には夏の強い日射しがキラキラと反射し、彼女の視覚を鋭く刺激しただろう。
もしかしたら、それらの刺激の中で、彼女は自身の存在をかろうじて感じとり、おぼろげながらにも外界との関係を見い出していたのではないだろうか。
ひとり水辺にしゃがみ、流れる水を触り続ける彼女の姿を思い出す時、それは美しく、力強い行為として私の脳裡に蘇る。


